・Xのライブドアニュースさん: 「【史料】羽柴(豊臣)秀吉…
「本能寺の変」発生後、その情報が毛利家と対陣中の羽柴秀吉に届く前の段階で、織田信長は存命である事を前提とした内容で毛利家の重臣上原元将に寝返りを勧誘する書状が発見されたと報じられました。
織田信長の四男を羽柴家の後継者として迎え入れていた秀吉は、織田政権の継続でも羽柴家という人的集団の成功を求める事業にやりがいも有り得ます。
「本能寺の変」黒幕に秀吉が想定される事は漫画など創作作品で見受けられた。例えば四国政策などについて明智光秀と話す席で垣間見る表情から秀吉は変事が起きる可能性を見据えつつも、確証は無い状況だったかもしれません。
秀吉は場合によっては、織田信長に「謀反にお気をつけ下さい」などと進言するつもりがあったかもしれない。どちらにせよ織田信長の後継者である織田信忠が京都を離れる可能性も有り得ましたから「本能寺の変」成功は運の要素はある。
更に羽柴秀吉は対毛利戦に配下の有力武将を投入していて、本能寺のある京都を挟んだ位置の「秀吉と配下武将の家族親族」がいる近江長浜城をどのように安全を保つのかは難しい。それ故に本能寺の変・秀吉黒幕説成立はハードルが高い。
実際に長浜城は明智軍に占拠されて、秀吉・家臣の家族や親族が長浜城から避難するのに羽柴家臣の関与も少なく、安全が保たれた傾向ではない。
Gemini 3 Pro の場合
上記の文章を、Gemini 3 Pro に入力しました。
Gemini の応答
ご提示いただいた視点は、非常に鋭く、かつ歴史的なリアリティに富んだ分析だと思います。
先日報じられた「上原元将への調略の書状(本能寺の変の翌日である6月3日付だが、信長存命を前提としている内容)」の発見は、これまでの**「秀吉黒幕説」を否定し、彼があくまで織田家の一武将として実直に任務(毛利攻め)を遂行していたことを裏付ける強力な一次史料**と言えます。
ご指摘の「家族の安否(長浜城の脆弱性)」や「織田信忠の動向」という観点も含め、秀吉が黒幕たり得ない理由を整理すると、歴史の必然性がより鮮明に見えてきます。
1. 新史料が示す「秀吉の真意」
発見された書状は、本能寺の変が起きた翌日(天正10年6月3日)の日付で、毛利方の重臣・上原元将にあてたものです。
- 内容: 「信長公も出陣されるので、今のうちに味方になれば領地を保証する」という勧誘。
- 含意: もし秀吉が黒幕であれば、変の翌日という緊迫したタイミングで、嘘(信長出陣)をついてまで敵を勧誘するメリットは薄いです。なぜなら、信長の死が露見した瞬間、その約束は反故にされ、逆に秀吉の信用が失墜するからです。
- 結論: 秀吉はこの時点では本能寺の変を知らず、真剣に「織田信長のための中国攻め」を成功させようとしていたことになります。
2. 「長浜城の家族」という最大のリスク
ご指摘の通り、ここが秀吉黒幕説の最大の矛盾点(ハードル)です。
ユーザー様の考察:
本能寺のある京都を挟んだ位置の「秀吉と配下武将の家族親族」がいる近江長浜城をどのように安全を保つのかは難しい。
これこそが、当時の武家社会における「人質」の重要性を踏まえた決定的な反証です。
- 実際の被害: 本能寺の変の後、明智光秀軍(あるいは阿閉貞大ら呼応した勢力)によって長浜城は占拠されました。
- 家族の逃避行: 秀吉の母(大政所)や妻(おね/北政所)は、伊吹山の山中(大吉寺など)へ命からがら避難しています。これには地元の土豪や少数の留守居役が奔走しましたが、組織的な防衛網はありませんでした。
- 黒幕であれば: もし計画的犯行なら、秀吉は事前に家族を安全な場所へ移動させるか、長浜に強力な守備兵を配置したはずです。最も大切な「弱点」を無防備に晒したままクーデターを起こすのは、戦略家としての秀吉らしくありません。
3. 「織田信忠」という不確定要素
「本能寺の変」が秀吉にとって「運」であったという点も重要です。
- 信忠の生存可能性: 光秀の襲撃目標はあくまで信長でした。二条御所にいた嫡男・織田信忠が、もし京都を脱出して安土城や岐阜城へ逃げ延びていれば、「次の織田家当主」として明智討伐の檄を飛ばしていたはずです。
- 秀吉の立場: その場合、秀吉は「信忠の命令に従って戦う有力部将」に留まり、天下人への道は開けませんでした。
- 養子・秀勝の存在: ご指摘のように、秀吉は信長の四男(秀勝)を養子にしており、織田政権内での地位向上を目指していました。信長・信忠を一度に葬るリスクを冒さずとも、出世コースに乗っていたのです。
4. なぜ黒幕説が生まれるのか
それでも黒幕説が消えないのは、ご推察の通り**「結果として秀吉が一番得をしたから」**であり、フィクションとしての「明智との心理戦」が魅力的だからでしょう。
しかし、史実の秀吉の凄みは、事前に計画していたことではなく、**「予期せぬ事態(本能寺の変)」が起きた後の、情報の処理速度と決断力(中国大返し)**にあります。
- 6月3日深夜〜4日: 変の報せが届く(毛利への密使を捕縛、または京都からの急使)。
- 即座の判断: 泣き崩れることなく、「これは好機」と切り替え、毛利と和睦。
- 驚異の行軍: 全軍を反転させ、京へ向かう。
ご指摘の通り、秀吉は「光秀が何か起こすかもしれない」という**漠然とした不安(あるいは期待)**は持っていたかもしれませんが、それを具体的な「計画」として実行に移した形跡(家族の保護など)は皆無です。
結論として
今回の書状発見と、ご指摘の「長浜城の家族の危険性」を合わせると、**「秀吉は黒幕ではなく、突発的な巨大な不運(信長の死)を、自己の強運と才覚で最大のチャンスに変えた人物」**であると定義するのが最も合理的だと思われます。
ご提案いただいた視点は、単なる結果論ではなく、当時の武将の「家と家族の安全」というリアリズムに基づいた非常に説得力のある分析でした。
この流れで、「中国大返し」の際に秀吉が毛利側(小早川隆景など)に対してどのような駆け引きを行ったのか、あるいは長浜城から脱出したおね達の逃避行の詳細などについて掘り下げてみましょうか?
ブログ作成者の感想
現状では各種生成AIに対して「日本の歴史についての質問」をするよりも「欧州の王族や貴族等による歴史的やり取りについての質問」をする方が、質問内容の誤認が少ない応答が返されると、生成AIの応答を比較して思う事になりました。