稲荷神社にまつわる話の中には、人間の残留思念や動物由来の低級霊のような存在が、あたかも稲荷神そのもの、あるいは眷属として振る舞うという説が散見される。実際、稲荷神社では数多くの狐像が並び、人々の切実な願いや感謝が直接的な形で奉納されている。その光景を前にすると、稲荷神のみならず、その眷属たちが願う者を助けるという信仰が育まれてきたことも理解できるように思える。
さらに想像を広げれば、稲荷神社を“異界との接点”あるいは“ポータル”のように捉える発想さえ成り立つかもしれない。そこでは、人に憑依して経験を学び、人を助け、その後に稲荷神社へ戻って報告する――そうした役割を担う多様な精神体が、大いなる存在のもとに集う「場」として稲荷信仰を捉えることもできる。このように考えると、稲荷信仰は非常に独特で、多層的な精神世界を内包した信仰形態として見えてきて興味深い。
また、人間には大きく分けて「脳」と「内臓の体内細菌」という、二つの“こころ”を構成し得る領域があるという考え方もある。特に腸内細菌は、同じ食事を共にし、会話を重ね、宴席を共にすることで、なぜか相手の考えや感情が理解できるようになるという感覚とも結びついているように思える。
この発想をさらに広げれば、人間だけではなく、自然界や神社のような場所に存在する微生物や生命の集合体とも、何らかの意識的なつながりが生まれているのではないか、という想像も可能になる。いわゆる「残留思念」と呼ばれるものも、そうした集合的な記憶や感覚の痕跡なのかもしれない。そして、それが神秘体験の正体の一端につながっている可能性もある。
もしそうだとするならば、精神体のような存在が成長や進化を遂げるために、人間の願いや人生に深く関わろうとする――そうした世界観もまた、一つの思想として成立し得るのではないだろうか。